現場最前線への参加

現場最前線への参加

 前向きに過ごせた大学勤務、18年間の大学ペインクリニック科での勤務は生甲斐そのものでした。その証拠にその期間中、休暇を取ったことは一度もありませんでした。スタッフが休みを取ることが多くなる夏休みなど、よく看護師さんから「先生は夏休み取らないんですか?」と聞かれることがあり、「僕は大学で仕事をしていることが気分転換みたいなものなので、とても勿体なくて休めません」等と返事をして呆れられたものですが、でもこれは別に格好付けて言っている訳ではなく本当にそのような気持ちだったのです。(念のため・・・)

 

 そんな理想的な環境と時間も、定年という辛い?現実が立ちはだかり大学を去ることになります。これには一時的に結構めげましたが元来の打たれ強さ(何の事は無い、ずっと打たれっ放しだったので慣れっこだっただけ・・・)のお陰で何とか立ち直り、それまでも休日のみ診療していた現在の院で本格的に地域医療の末席に参加した次第です。

 その様なことから自分のライフワークとして生きて来た大学ペインクリニック科の治療スタイルを基盤に、「緩和医療に貢献する」を院是に掲げ、その後の診療を続けてまいりました。それは長年参加して来たペインクリニック科での治療と、附属病院病棟緩和ケアチームのメンバーとして参加したがん性疼痛に対する治療を、地元でも行っていきたい・・という強い思いがあったからです。(やはり1542名の恩師の無念は忘れられません。)

介護帰省してきました

 仕事柄、介護の現場は日常的に目の当たりにする光景でした。様々な光景があり、第三者的な目線からもそれぞれの大変さを感じていたのですが、その日常の介護現場が自分にも回ってきて改めてその大変さを実感しているところです。

 私は北海道生まれの北海道育ちで、現在も実家があり母が一人で暮らしています。その母が気力的にも体力的にも何やら怪しげになってきたことから、4歳下の妹と相談し何とかサポートをしようということになった次第です。母はまだ自活できているのですが、いつ何があってもおかしくない状況であることから、子供として出来ることをしようということになりました。母に今後の希望を聞いたところ、「老人ホームには入りたくない」、「田舎を離れたくない」というものでした。

                            そんな希望を叶えるべく選んだ方法が「毎月どちら

                           かが実家に顔を出す」という選択だったのです。

 そうは言っても私は東京ですし、妹も千葉です。果たして続けられるだろうか?との危惧は勿論あったのですが、何とか続けられています。私はそれまで高校卒後故郷を離れて以来四十数年間の間、帰省したのは5~6回位しか無かったのですが、母のお陰で2か月に一度母のもとに帰ることになった次第です。

 

介護帰省 その 2

妹と交互に隔月の間隔で帰省するようになってから2年超、交通手段はやはり飛行機でした。成田発函館空港行きのLCC(格安航空)があり、経済的負担もお陰様でかなり助かっていました。ところが今年(H31年)の3月でその便が無くなってしまいとてもショックを受けたところです。

LCCの魅力はその名の通り運賃の格安さで、羽田ルートの三分の一でした。また私にはもう一つの楽しみがあって、それは成田から函館までの飛行ルートが日本列島のほぼ真ん中を1万メートル近い高度で飛んでいくため、太平洋と日本海を同時に眺められることと、私がかつて所属していた航空自衛隊の基地や飛び回っていたその周辺の懐かしい地形が目の当たりに見えて、とても楽しくて懐かしさがよみがえる時間だったのです。

しかし隔月の帰省は欠かせません。それで今回(今年の6月)は多少遊び心を発揮して、夜行バスとフェリーでの北海道行にしてみました。出発は新宿にあるバスタ新宿からの青森行き高速バスで約9時間、青森から函館までは青函フェリーで3時間50分、なかなか楽しい時間で、特にフェリーは青函連絡船以来約30年ぶり。

船旅独特のあのゆったりさは何物にも代えられない時間です。夏場でも時々波の荒い津軽海峡ですが、今回は海峡に入ったことも分からなかった位波が静かで、とても快適な海の旅でした。